Photo by Kazumichi Kokei/古渓一道
Photo by Kazumichi Kokei/古渓一道
昨夜代官山UNITで行われ、称賛の嵐と共に幕を閉じたブラック・ミディの記念すべき日本初公演の最速ライブレポートが到着!今夜の大阪公演はソールドアウト!明日の京都公演も残りわずかとなっている。この衝撃は見逃し厳禁!!!
black midiは何者にも似ない。
もちろん、彼らの音楽に“似ている”とされる過去のロック・バンドたちの名前は、これまでに山ほど挙げられた。彼らの初の来日公演――東京公演は即完売となった――では、キング・クリムゾンがジャズに傾いたときの即興的に崩れていくような演奏や、ディス・ヒートの剃刀のような鋭さと技巧の奇妙な同居をほうふつとさせる瞬間もあった。あるいは、「953」の印象的なギター・リフで幕開けした演奏と共にフロアの最前列がモッシュピットと化したことは、オーディエンスがblack midiをパンク・バンドだとみなしたことの表れだろう(とにかく期待値も高かったのだろう。この日の観客は、本当に素晴らしい盛り上がりを見せていた)。
だが、プログレッシヴ・ロックからポスト・パンク、マス・ロックまで、さまざまなジャンルやバンド名を引き合いに出してみたところで、近接するところはあれど、結局は“そのどれでもない”のがblack midiだ、としか言いようがない。だから、文字通りの意味での“破天荒(今まで誰もしなかったようなことをする)”という言葉がぴったりだ。過去からも未来からもちょっと切り離されていて、ただただ“今”だけがある。荒れた野の中、真っ直ぐ伸びるアスファルトの乾いた道を、どこへ行き着くかもまったくわからないままひた走っている――代官山UNITでの彼らの演奏は、まさにそんな感じだった。
というのも、ライヴ映像はいくつも観ていたものの、ここまでフリーキーでセッション性の強い演奏をするとは思わなかったからだ。もちろん、レコードとはまったく違う。拍子やテンポを自在に変え、伸び縮みさせ、音量をぐっと抑え込んで静寂に近づいたかと思えば、一気にバーストする。その緩急自在なプレイのピークの瞬間と、突然訪れる静けさとの間で、観る者は歓声を上げたり、固唾を呑んで見守ったりする。その様はとてもエキサイティングだったし、4人の一触即発ぶりを見続けることはエンターテインメントだとすら感じた。あるいは、レールの始点と終点が繋がっていないローラー・コースターに乗せられているような、おそろしさと楽しさが半々な気分、というか。
black midiのライブは、一度も止まることがなかった。例えば、ヴォーカリストでギタリストのジョーディ・グリープが前半で弦を切ってしまい、弦を交換する場面があった。その最中でも他の3人は「Ducter」のイントロを引き伸ばしに伸ばし、一方のジョーディは胸ポケットからこれ見よがしに弦を取り出して大袈裟な身振りを見せつけながら、まるで手品師のように弦をギターに張っていく。その、(ネガティブな意味ではなく)あざといジョーディのパフォーマンスにも、オーディエンスは拍手と歓声を送る。トラブル(というか、あれほど激しい演奏を続ける彼らにとって、ライブ中に弦を切ることなど日常茶飯事なのだろう)さえも好機とし、パフォーマンスとして演奏のなかに組み入れる。曲と曲の間はほとんどないものとして、インプロヴィゼーション的なセッションによってシームレスに繋がれていく。
おそらく彼らは、こうした音楽的想像力と実験的好奇心の赴くがままに任せたセッションを、常にスタジオで続けているのだろう。その彼らの日常的なセッション――4人で音を出して重ね、演奏をひたすら、心ゆくまで楽しんでいる姿を見た、というのがこのライブの率直な感想だ。前日、ジョーディにインタビューした際に彼は、僕たちの曲はストーリーのようなもので、曲によって表現しているエモーションは違う、というようなことを語っていた。それを思い出しながら、彼らにとってはライブやショーもひとつのストーリーなのではないかと感じた。起伏に富み、様々な感情の模様が入れ代わり立ち代わり現れる。だからこそ、このような彼らの演奏を『Schlagenheim』というレコード=入れ物に“押し込める”ことは大変な作業だっただろう、とも思った。
ライブで得るものは多かった。例えば、セッションが続いていくなかでも、ジョーディのギター・リフ/フレーズがきっかけで曲が始まることからは、バンド内における彼のリーダー的役割というのは十分に伝わってきた。また、「Near DT, MI」などのヴォーカルはベーシストのキャメロン・ピクトン(メンバーの中では彼がいちばん少年のような顔立ちで、若く見える)が歌っていたのかとか、「Years Ago」の支離滅裂なシャウトはギタリストの、マット・ケルヴィンだったのかとか……。あるいは、上半身裸で目の前の太鼓を一心不乱に乱打し続けるモーガン・シンプソンの存在感も忘れがたい(取材のときに感じたのは、どこか憂うつで神経質なロンドンの少年たち、という雰囲気の3人と比べ、ファッショナブルでおおらかな彼だけは「根アカ」という感じがした)。彼はチャーチ・バンドで子どもの頃から叩いていたとかで、ロック・ドラマーと言い切れはしないのだが、あそこまでタムを執拗に叩きまくるロック・ドラマーもいまどきいないだろう。彼の、メタリックにも聞こえるタムの鋭い乱打や、張り詰めた音色のスネアのショットには何度も興奮させられた。おかげでドラム・セットがどんどん前方へとずれていっていたのも、バンドの“やりすぎ感”を表していた。また、4人がステージ上横一列に並んでいたのも、個性の強い4人を印象づけるという点ではとてもよかった(下手からキャメロン、ジョーディ、マット、モーガンの順)。
冒頭で書いた「953」もそうだが、「Near DT, MI」のようなハードコア・パンクといってもいいような曲の演奏中、フロアでは激しいモッシュが起きていた。観客たちがパンク・スピリットを感じていた一方で、black midiのライブからはファンクネスを大いに感じたことも言っておかなければならないだろう。序盤の「Speedway」でマットはワウ・ペダルを使って掻き毟るようにギターを鳴らしていたし、モーガンが叩く手数の多いビートは演奏全体を包み込むようなグルーヴを生んでいた。ショーの後半では、アフロ・ビートのようなリズムとグルーヴで陶酔的な演奏を聞かせる場面もあった(もちろんこれは、『Schlagenheim』のようなレコードには収められていない)。だが、当然black midiは、いわゆるディスコ・パンク・バンドからはかけ離れている。パンク、ファンク、ダンス、即興……ジャズ? マス・ロック? いくら既存の言葉を当てはめてみようとしても、彼らはそのどれでもあって、どれでもない。そう、black midiは何者にも似ないのだ。ただひたすら“今”を感じる、向こう見ずな演奏ではあったが、そこには未来から細く差し込んでくる兆しのような光の眩さも、どこかで感じざるをえなかった。
text by 天野龍太郎
昨夜代官山UNITで行われ、称賛の嵐と共に幕を閉じたブラック・ミディの記念すべき日本初公演の最速ライブレポートが到着!今夜の大阪公演はソールドアウト!明日の京都公演も残りわずかとなっている。この衝撃は見逃し厳禁!!!
black midiは何者にも似ない。もちろん、彼らの音楽に“似ている”とされる過去のロック・バンドたちの名前は、これまでに山ほど挙げられた。彼らの初の来日公演――東京公演は即完売となった――では、キング・クリムゾンがジャズに傾いたときの即興的に崩れていくような演奏や、ディス・ヒートの剃刀のような鋭さと技巧の奇妙な同居をほうふつとさせる瞬間もあった。あるいは、「953」の印象的なギター・リフで幕開けした演奏と共にフロアの最前列がモッシュピットと化したことは、オーディエンスがblack midiをパンク・バンドだとみなしたことの表れだろう(とにかく期待値も高かったのだろう。この日の観客は、本当に素晴らしい盛り上がりを見せていた)。
だが、プログレッシヴ・ロックからポスト・パンク、マス・ロックまで、さまざまなジャンルやバンド名を引き合いに出してみたところで、近接するところはあれど、結局は“そのどれでもない”のがblack midiだ、としか言いようがない。だから、文字通りの意味での“破天荒(今まで誰もしなかったようなことをする)”という言葉がぴったりだ。過去からも未来からもちょっと切り離されていて、ただただ“今”だけがある。荒れた野の中、真っ直ぐ伸びるアスファルトの乾いた道を、どこへ行き着くかもまったくわからないままひた走っている――代官山UNITでの彼らの演奏は、まさにそんな感じだった。
というのも、ライヴ映像はいくつも観ていたものの、ここまでフリーキーでセッション性の強い演奏をするとは思わなかったからだ。もちろん、レコードとはまったく違う。拍子やテンポを自在に変え、伸び縮みさせ、音量をぐっと抑え込んで静寂に近づいたかと思えば、一気にバーストする。その緩急自在なプレイのピークの瞬間と、突然訪れる静けさとの間で、観る者は歓声を上げたり、固唾を呑んで見守ったりする。その様はとてもエキサイティングだったし、4人の一触即発ぶりを見続けることはエンターテインメントだとすら感じた。あるいは、レールの始点と終点が繋がっていないローラー・コースターに乗せられているような、おそろしさと楽しさが半々な気分、というか。
black midiのライブは、一度も止まることがなかった。例えば、ヴォーカリストでギタリストのジョーディ・グリープが前半で弦を切ってしまい、弦を交換する場面があった。その最中でも他の3人は「Ducter」のイントロを引き伸ばしに伸ばし、一方のジョーディは胸ポケットからこれ見よがしに弦を取り出して大袈裟な身振りを見せつけながら、まるで手品師のように弦をギターに張っていく。その、(ネガティブな意味ではなく)あざといジョーディのパフォーマンスにも、オーディエンスは拍手と歓声を送る。トラブル(というか、あれほど激しい演奏を続ける彼らにとって、ライブ中に弦を切ることなど日常茶飯事なのだろう)さえも好機とし、パフォーマンスとして演奏のなかに組み入れる。曲と曲の間はほとんどないものとして、インプロヴィゼーション的なセッションによってシームレスに繋がれていく。
おそらく彼らは、こうした音楽的想像力と実験的好奇心の赴くがままに任せたセッションを、常にスタジオで続けているのだろう。その彼らの日常的なセッション――4人で音を出して重ね、演奏をひたすら、心ゆくまで楽しんでいる姿を見た、というのがこのライブの率直な感想だ。前日、ジョーディにインタビューした際に彼は、僕たちの曲はストーリーのようなもので、曲によって表現しているエモーションは違う、というようなことを語っていた。それを思い出しながら、彼らにとってはライブやショーもひとつのストーリーなのではないかと感じた。起伏に富み、様々な感情の模様が入れ代わり立ち代わり現れる。だからこそ、このような彼らの演奏を『Schlagenheim』というレコード=入れ物に“押し込める”ことは大変な作業だっただろう、とも思った。
ライブで得るものは多かった。例えば、セッションが続いていくなかでも、ジョーディのギター・リフ/フレーズがきっかけで曲が始まることからは、バンド内における彼のリーダー的役割というのは十分に伝わってきた。また、「Near DT, MI」などのヴォーカルはベーシストのキャメロン・ピクトン(メンバーの中では彼がいちばん少年のような顔立ちで、若く見える)が歌っていたのかとか、「Years Ago」の支離滅裂なシャウトはギタリストの、マット・ケルヴィンだったのかとか……。あるいは、上半身裸で目の前の太鼓を一心不乱に乱打し続けるモーガン・シンプソンの存在感も忘れがたい(取材のときに感じたのは、どこか憂うつで神経質なロンドンの少年たち、という雰囲気の3人と比べ、ファッショナブルでおおらかな彼だけは「根アカ」という感じがした)。彼はチャーチ・バンドで子どもの頃から叩いていたとかで、ロック・ドラマーと言い切れはしないのだが、あそこまでタムを執拗に叩きまくるロック・ドラマーもいまどきいないだろう。彼の、メタリックにも聞こえるタムの鋭い乱打や、張り詰めた音色のスネアのショットには何度も興奮させられた。おかげでドラム・セットがどんどん前方へとずれていっていたのも、バンドの“やりすぎ感”を表していた。また、4人がステージ上横一列に並んでいたのも、個性の強い4人を印象づけるという点ではとてもよかった(下手からキャメロン、ジョーディ、マット、モーガンの順)。
冒頭で書いた「953」もそうだが、「Near DT, MI」のようなハードコア・パンクといってもいいような曲の演奏中、フロアでは激しいモッシュが起きていた。観客たちがパンク・スピリットを感じていた一方で、black midiのライブからはファンクネスを大いに感じたことも言っておかなければならないだろう。序盤の「Speedway」でマットはワウ・ペダルを使って掻き毟るようにギターを鳴らしていたし、モーガンが叩く手数の多いビートは演奏全体を包み込むようなグルーヴを生んでいた。ショーの後半では、アフロ・ビートのようなリズムとグルーヴで陶酔的な演奏を聞かせる場面もあった(もちろんこれは、『Schlagenheim』のようなレコードには収められていない)。だが、当然black midiは、いわゆるディスコ・パンク・バンドからはかけ離れている。パンク、ファンク、ダンス、即興……ジャズ? マス・ロック? いくら既存の言葉を当てはめてみようとしても、彼らはそのどれでもあって、どれでもない。そう、black midiは何者にも似ないのだ。ただひたすら“今”を感じる、向こう見ずな演奏ではあったが、そこには未来から細く差し込んでくる兆しのような光の眩さも、どこかで感じざるをえなかった。
text by 天野龍太郎