Draft 7.30
Autechre
RELEASE: 2003.04.05
時はいまだロマンティックなデジタル登場以前の時代だった。電子音楽が未来についての希望と悪夢を(人々に)思い抱かせていた頃。技術開発される以前の金属性の装置。新たなるテクノロジーの時代への好奇心に取り憑かれていた新しいもの好きの人々。新たな素晴らしい音楽的可能性が花開く直前の、もしくは魂が失われたブラック・ホールに埋もれながら、まだ手がつけられていない空間で迷子になり放浪し……。Kraftwerk(クラフトワーク)の魅惑的でうららかなシンセポップ、Stockhausen(シュトックハウゼン)のmusique concrete(ミュージック・コンクレート)、David Bowie(デヴィッド・ボウイ)とGary Numan(ゲイリー・ニューマン)による罪悪感から解放されたマシーン・ミュージック。これらは特定の人々を虜にしたが、同時に一方では、電子音楽を未知のロボットによる侵略と捉えた人々に拒否されもした。
しかし、今となっては、その未来は現在となった。携帯電話やインターネット、プレイステーションに支配された生活を送る者にとって、電子音楽はサウンドトラックだ。"本物の"音楽とはユダヤ人のハープをビュンと弾いたり、ジャグを鳴らしたりすることだと信じている頭の固い非合理主義者やフォーキーたちだけが、エレクトロ・ミュージックを理解できないでいる。安っぽいテクノ・ビートが日常に溢れ、ガーデニングの番組でさえも自分たちのテーマ曲にドラムンベースを使うというのに。
しかし、レトロフューチャー風な感傷に頼ることなく、エレクトロ・ミュージックの開拓精神を保ち続けているのは、ひと握りのグループだけだ。永遠に変化し続け、食い荒らされた領域を捨て、斬新さが潜む汚れなき未開地を探す。そんな困難だが実り多き仕事に永遠に従事し続ける。まさにその先頭にいるのは、Autechreとしても知られるSean Booth(ショーン・ブース)とRob Brown(ロブ・ブラウン)だ。
しばしばAutechreはエレクトロ・ミュージックの中でも哲学的でアンチ・ダンス勢力の代表として分類されている。しかし彼らのルーツは80年代後半のマンチェスターのヒップホップ・コニュニティーに根ざしている。彼らの初のEP「Cavity Job」は、歯医者が使うドリルの発する音のようなテクノにスペース・インベイダーの総攻撃が乗っかったような作品だ。彼らにとって、それは最大限普通に作った作品だった。92年、ペナイン山脈〈the Pennines〉を超え、彼らはシェフィールドにあるWarpレコーズへ出向き、未来に向けて音楽活動へと取りかかった。彼らにも影響を受けたアーティストや他の音楽との関連性はあった。フリー・インプロヴィゼーション〈free improvisationalists〉のAMM、"オーガニズド・サウンド〈organised sound〉"で知られる不気味なクリエーター・Tod Dockstader(トッド・ドッグステイダー)、そしてマイルス・デイヴィス〈Miles Davis〉。マイルスに関しては、マイルスの「ジャズをひっくり返してしまった彼のやり方や、人々を面食らわせるさま」を彼らは崇めている。Warpのレーベル・メイトであるThe Aphex Twin(エイフェックス・ツイン)は、エレクトロ・ミュージックを身体の一部のように自然にかつ根本的に作っていること。Mantronixは、16年経った現在ですら、そのビザンチン風なエレクトロ・ファンクが圧倒的な作品であること。そしてAfrika Bambaata(アフリカ・バンバータ)は、Autechreがさらに突き進めたパーフェクト・ビート〈the Perfect Beat〉の探求において。
しかし、基本的にAutechreはAutechreでしかでない。経験を積めば積むほど、彼らはこうしたすべての影響を置き去りにする。そして、批評家たちは時代遅れの概念に囚われたままだ。
Autechreのデビュー作『Incunabula』は月面で操作され、豪奢なもの悲しい追憶、地に響くリズムの精密な巧妙さがあり、さらにテクノの引力が持つ従来の法則を保留させてしまった。そしてそれは幕開けでしかなかった。アルバムが終わる頃には、彼らはハイパーなムーグへと軌道を外れ、それは時折、NASAにあるハップル宇宙望遠鏡ですら見えないほど遠い場所でインターセプトされた大昔のラジオ電波のような、サンプリングの話し声がかすかに噴出されることで中断される。
94年の『Amber』の頃、(彼らの音楽に)"アンビエント"という言葉をお仕着せるのは手軽にされすぎた。しかしこのアルバムに関して言えば、どこにも安らかなところはない。その暗く沈んでいくような、流れが消え失せるようなサウンドは、リスナーを浮遊するような感覚に陥れた。リズムに対するより深い洞察にはまり、シンセに隠された意味に誘惑され夢中になり、覆われたものの存在をかすかに感じ、別な場所から指令を出すような人間の声そして死の世界。こんなふうに感じられたのではないだろうか。
少なくとも初期のアルバムについては、たとえば月や海、宇宙といったおおざっぱな隠喩を用いることも可能だった。95年の『Tri Repetae』以降、彼ら自身ですら多様なトラックを"言語のようなもの"で記録するしかなかった。それは、Autechreもしくは彼らの親友にしか意味をなさない秘密の引き出しから取り出されたものかもしれないし、ランダムな動作をするコンピュータ・プログラムによって作られたのかもしれない。95年の『Anvil Vapre EP』から始まる黄金の第2期に至っては、形容する言葉さえ失ってしまう。たとえば、その霊的なリズムのこなれた絡み方、空虚なキーボードによるモチーフ、早回しの"Push! Push!"というサンプルについてコメントすることすら、容易ではない。それを適切に行おうと思えば、柔軟な3Dの幾何学的イラストか何かが必要になるだろう。
94年の『The Anti EP』は、保守党政府が提出した Criminal Justice法案※1に対する、Autechreによる正式な音楽的抗議だった。この法案は、"リピートされるビート〈repetitive beats〉"の形で作られるエレクトロニック・リズムを規制しようとする、役立たずの実現不能な試みだった。「Flutter」は風刺であり、そして政府への一度きりの回答という意図があった。と同時に、皮肉にもAutechreの(音楽の)典型的モデルとしての役目も果たし、またテクノにおける(手軽な)リピート手法に対する非常に過激な攻撃ともなった。
※1 レイヴ・パーティの規制を盛り込んだCriminal Justice and Public Order Billのこと。
これはAutechreの音楽が外界と接触を持った唯一の例だ。「僕たちは絶対に何かを象徴したり模倣したりはしない」とSean(ショーン)は語る。「純粋にクリエイティヴであることに興味があるんだ。僕たちはそれをリアルに保ちたいと努力している。しかし、ばからしいヒップホップ・シーンなんかの中ではなく、ね。音楽を作る人間は自分に対して実直になっていない。そこが問題だ」
もちろん、「音楽のために」と主張するのは、ミュージシャンの間では常套句だ。しかし、Autechreの場合、文字通り、全く、厳密にその通りなのだ。ただ単に『LP5』(98年)、『EP7』(99年)と名付けられたアルバムは、Autechreをそう評しても嘘にはならないことを証明した。いかなる意味論や関連性もなく、波及的な影響のない音楽で、何に立ち返ることもなく、多面的な自身の鏡以外の何物でもないのが彼らの音楽だと。それぞれのトラックは、未知の世界からの歪んだ交信であり、独自の時間と空間の中で水銀が形を変える瞬間であり、完全なるオリジナリティへの渇望から作り出される。かといって、Autechreの中では、フューチャリストという言葉も当てはまらない。――彼らはかつて「いまだに聴かれていないものだけが、フューチャリストの音楽というのさ」と言っている――内心、ライヴを行うときのみ、彼らは自然発生的な創造力を最大限に引き出せると彼らは信じている。その場限りのために新しい曲をミックスし、彼らのスリリングな作品をただ単にプレイ・ボタンを押すというだけで片づけようとはしない。「音楽にとって真にリアル・タイムなのは、それが全く録音されない時だ」とSean(ショーン)は言う。「僕たちは急いで物事を片づけたいたちでね」
2001年の驚くべきアルバム『Confield』には、コアなAutechreファンもずいぶん戸惑っただろう。その実験的な急進主義、誰も経験したことのないミクロのサウンドに。しつこいようだが、たとえば「Bine」がアルミをのたまわるヤスデの足音を増幅させたようだ、などと言うだけでは充分でない。『Confield』は細部のパーツにまで削ぎ落とされたテクノ・ファンクである。催眠術に掛かけられたような、分子構造の一見気まぐれで魅力的なエレクトロニック・ダンスは、顕微鏡で精査されたかのようだ。
ポップ/エレクトロ・シーンの誰よりも、AutechreはLigeti(リゲティ)やStockhausen(シュトックハウゼン)らの専売特許であるミュージック・コンクレートの広大で無調な宇宙の域に近い、と示唆したい気に駆られる。しかし、Sean(ショーン)にとって、見た目には"自由な"クラシック界のアヴァンギャルドは自らに足かせをはめている。「感じるべき何かを生み出すことに興味はない。クラシックの形式の範疇では、僕たちがしていることは理解されないだろう。自分がこだわっていることをやれ、他の人が作り上げた常識なんかに囚われるな、と言いたいね」
では、Autechreの音楽においてその魅力や目的とは一体何なのだろう?と思う人もいるかもしれない。なぜそれがしっくりくるのか。スリルや悦びや情熱はどこにあるのか。私たちは、陽の下に新しいものは何もないと常に信じ込まされ、掃いて捨てるほどいる10代目のアレサ・フランクリンやイギー・ポップの物まねに情熱も消え失せた世界にいる。そんな疲れ切った、後ろ向きのポスト・モダンの社会において、Autechreは非凡な輝かしい存在だ。彼らは、私たちはいまだ前に進む力を持ち、私たちをどこか別な場所に連れていってくれる音楽はまだ作り出せると証明してくれる。知られざる悦び。スリルも悦びも情熱も魅力もある。それが(本来)ポップ・ミュージックがなすべきことなのだ。そして、Sean(ショーン)も主張しているように、「Autechreはポップ・ミュージックだ。僕はそうだと思っている。僕らが奇妙で風変わりに見えるのは、音楽産業のマーケティングの結果でしかない」のだ。